東京 / 築地 業務用 酒類卸
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◆あとひき◆
2003年(平成15年)
江戸開府400年記念として、東京都内で様々なイベントが執り行われました。その一環として、東京都中央卸売市場・築地市場において、江戸開府400年築地市場祭り「歴史と食文化のイベント!」「江戸の雰囲気と、築地の美味をご堪能あれ!」が11月2日に開催されました。
●水産エリアでは、200キロ級高級生鮪実演解体・販売・及び鯨・魚介類の販売。
●青果エリアでは、全国から果物・野菜の販売、気軽に買える旬の味の催し。
●魚がし横丁エリアでは、普段はあまり目にできないプロ専門の道具などの販売。
●寿司店、魚料理店、洋食、中華、和食、どんぶり、そば、喫茶などが出店。
●築地の歴史広場では、築地市場の過去・現在・未来を資料(パネル・写真・ポスター)とともに紹介。
●屋台・縁日・演芸広場では、中村座イベントステージや、江戸伝統工芸「刃物」「刷毛」などを実演
及び販売。
このイベントにおいて、弊社が日本酒・ワイン・ビール・ソフトドリンクなど飲物全般の一杯売りを依頼されました。日本酒につきましては、江戸時代の雰囲気を兼ね備えた、灘酒の原点「あとひき」をご提供させていただきました。この「あとひき」のイメージが江戸時代にマッチしていることもあり、来場されお飲みになった方々に喜ばれ、大変好評でございました。その時に掲げたパネルの内容をご紹介いたします。
樽廻船と新酒番船
樽廻船は、主に酒樽を上方から江戸へ送るためにつくられた定期航路です。
それ以外は馬の背に積まれ運ばれ、これを駄送といいます。馬の制限重量は四〇貫(150㎏)で、二樽を馬の背に分けて運び、二樽を一駄と呼び、十駄が一取引の単位でした。
1619年
堺の商人が日用品を船で江戸へと運ぶ際、一緒に酒も運んでいました。
1624年
菱垣廻船と呼ばれる定期航路に載せられました。
(菱垣廻船はもともと、船の囲いの下半分に菱形の装飾をしているので弁才船と呼ばれていた。)
1661年
菱垣廻船から独立して、酒を主な荷物として運ぶ運航を始めました。最初は二百石~四百石ほどの小早と呼ばれるものでした。
伝法により、酒樽は兵庫から江戸へと送られ、これが樽廻船の始まりです。
独立した理由は次の様に考えられる。
・菱垣廻船は仕建(荷物を積み込む作業)に時間がかかった。
・海損事故では酒荷が不利であった。菱垣廻船では酒樽は下積みの荷物であり、上積みの荷物
は海難の際処理されるが、その損害賠償を酒荷側も共同で持たされた。
・酒は酒造家の送り(委託)荷物であるが、他の荷物は江戸の問屋の仕入(注文)荷物であっ
た。荷物の性格が違っていた。
1704年
初めて、西宮で廻船に直積されました。
1707年
西宮に酒樽積問屋が出現しました。西宮の運送問屋は「岡荷物引請馬借附出並諸引請問屋」と呼ばれ、大阪・伝法への中継搬送を営んでいました。
1730年
江戸酒問屋が十組問屋から脱退しました。
伝法の廻船問屋が西宮、兵庫、灘目、池田、伊丹の酒造家の後援を得て、大阪廻船問屋の圧迫を排除するに到りました。
(※十組問屋とは、江戸における菱垣廻船の荷主達のことで、1694年に結成された。大阪ではこれによって江戸買次問屋というものを結成した。これが後に大阪二十四組問屋となった。(塗物店組・内店組・通町組・薬種店組・釘店組・綿店組・表店組・川岸組・紙店組・酒店組))
1727年前後
大阪・安治川と西宮を出発港として新酒番船が始まりました。この上方・江戸間の帆走レースとも言える番船は菱垣廻船による新綿番船があり、1702年に「新綿番船の様に酒を送る」との文書が残っております。その新綿番船がその頃にはすでにあり、1702年の時は江戸での酒価の高騰を見越してのものであったらしい。この番船が船を大型化へと仕向け、船主が灘の酒造家へと移行に伴い、船倉内も酒荷専用になっていきました。
酒番船が始めて西宮一カ所から出帆し、その後1792年にも西宮一カ所からの出帆もあり、大阪と西宮とを比べて西宮の方が優勢であった。
1805年
新酒番船の出帆が西宮一カ所のみとなりました。